7月ももうあと数十分で終わる。
私的なことだが、今月は生まれ月だった。
ちょうど京都では祇園さんのクライマックスの日であった。
ひとつまた歳を重ねた。
いよいよ40代も後半戦に突入である。
重ねた分だけ人間的に厚みが増すのなら歳を取るのは結構なことだが、願望に過ぎないことは自分が一番分かっている・・・。
先日のこと。30以上歳の離れた母校の後輩達が躍動する場面に立ち会った。
示し合せた訳ではないが、同級生も席を横にした。
そのもうひとつ隣の席に座る同級生は、息子さんが一目で役目が分かる背番号を背負って、コート上を走り、跳ぶ。
観戦し始めて否やボクの中にずっと眠っていたある情感が、時間軸を飛び越えて身体から出現していた。
この匂いであり、ざわめき、音、何もかもが脳のどこかを突っついている気がした。傍らにいるさっきの男の口から発する言葉からも感じることが出来た。
「結果を追い求めるよりも過程の方が大事だ」的な発想をさも口にする人をボクは失礼だが余り信用しない。
客席から見下している15歳の少年達は、正にその「結果」の為に日夜汗を流し、時には涙も溢れ、苦しかったら逃げ出すことだって簡単だったはずである。
翌日夕刻、「結果」が最高のものだった事を速報で伝え聞いた。
さっきの男は、また現場にて見届けたそうだ。
彼も30年経った月日を手繰り寄せながら、眩くきらめく15歳の青春に己を投影しているのだろう。(違ってたらゴメンね?)
その夜だったか、幼い息子の行儀悪さを叱った・・・。
彼は泣いて非を認めない。
よくあることなのだが、その夜のボクはどういう訳か寝付きが悪かった。
次の日の朝、出社後職場から家人にメールをし、唐突に、
「自転車買うたろ、今日!」
「今日??」
自分でも苦笑する思いつきだ。
前夜の親としての未熟さを「モノ」で取り繕うなんていうのは一番最悪なんだろうなぁ。
「夏になったら買ったる」約束を果たしたことにしておこう。
そう言い聞かせる。
息子は、今のところ2日間その「モノ」の虜である。
またベソでもかけば、叱ってしまうんだろう・・・。
実家に寄る。
母は、世間から見れば、独居老人である。
本人はいささかも思っていないだろうが、傍から見れば「後期高齢者」
町内でも指折りの元気者と言っても本人も否定しないだろう。
そんな母が、先日幾つかの町内の事情を話した。
「ほら、並びの何々さん亡くなりはってん。」
「あの長屋、どうも立ち退きの地上げ来てるらしいわ。」
「ほう・・・」そうしか返さなかった。
「人も歳をとれば、誰でもいつかお迎えが来る。
早い人も時々居はるが、順番は仏さんか神さんかが知ってるんやわ。」
生まれ育った町が日々様変わりし、当然ながら人も入れ替わる。時が経てば至極当然のサイクルなんでしょうが、どこか一抹の寂しさを感じる会話があった後日、滅多に入らない母の部屋の本棚をゴソゴソと探した。
息子を叱ったボクが、ちょうど叱られていた時分の風景を確かめたかった。
何年かぶりに手に取ったあの頃流行った某メーカーの粘着式アルバムの中には白黒写真や色褪せたカラー写真に幼い自分が現像後何十年も封印されたままだ。
ずっと以前ブログにも書いた通り、我が家は大阪中心部の東に位置し、3つの市が合併してひねりの無い名前であるが、数十万人規模、通勤に便利なベッドタウンである。
狭い道を挟んで三軒長屋が軒を連ね、公設市場を核にして10数軒向かい合った個人商店の中のパーマ屋(美容室)の息子として生を受けたのだ。
パーマ液と市場の裏路地の匂いの中で育った。
アルバムの中に残った商店街の風景は今や名残さえ失ってしまった。
公設市場は、幾度かスーパーに衣替えして今年ついに更地になった。
地上げは、そのあおりを食ったものらしい。何故なら我が家もそうだが、町内一帯は幾つかの地主と契約している。
要するに借地なのだ。
数軒残っただけの商店の末路が気にかかる。
一軒の店主にはボクがチビの頃、花札を教わった。もう一軒は、普段は寡黙だが一旦話し出すとどこで止めるか機会を失うお喋りな店主・・・。
商店街唯一の娯楽施設ボーリング場は、ブーム終焉後すぐさまパチンコ屋に衣替えして繁昌した時期もあったが(ボクもずいぶんと世話になった)、先日更地になった。大型のスーパーになると噂だ。
表紙と中身がばらけそうになるアルバムの数枚にスマホのカメラの焦点を合わせてみる。
今、正に自分が直面している葛藤が吹き飛ぶ気がした。
自分もこの土地に偶然か必然が生まれ落ち、たくさんの人や地域の中で育ち助けられて、今ここにいる。
「今、ここにいる。」
素晴らしいじゃないか。
町が変わっていく。
人も変わっていく。
変わらないのは、この写真にいるまぎれもないボクである。
何年か前に、よく通った銭湯のおばあちゃんに言われた。
「あらぁ〜、りょうちゃん、大きなったな〜ぁ?」
「ええ、まぁ、なんとか、おかげさんで・・・。」
うっかり読まれた方にとっては縁もゆかりも無い「ある風景」ですが、ボクにとっては時が過ぎ「ある特別な風景」となったのです。
「美容室」の前。月極駐車場。
白衣姿の母に抱かれるボクと思われる赤子。
現在は、地主が土地を手放し、建て売り住宅になった。
商店街時分の目抜き通りである。
家の前で三輪車に乗るボク(2歳?)道は当然ながら鋪装されておらず地道。週何回か来るバキュームカーが大好きだった頃。
向こう側に商店が並ぶ。年末年始は万国旗がこの細い道の空に揺れていた。
商店街の子供達。
ちょっとお姉ちゃんやお兄ちゃんがまとめ役。親はなくとも子は育った。
ほっぺたが膨らんでいるのは、みんな誰にもらったのか飴玉のせいだろう。
公設市場、商店街に活気があった頃だろう。
町内の慰安旅行と思われる。
×印は、ボクと付き添いの祖母。
「洋品店」「靴屋」「鶏肉屋」「肉屋」「豆腐屋」「八百屋」「本屋」「饅頭屋」「荒物屋」「瀬戸物屋」「うどん(麺)屋」「本屋」「駄菓子屋」「手芸屋」「化粧品屋」「車修理」「酒屋」「米屋」「衛生用品店」などなど。
今なら、全部ひとつのスーパーで揃うものばかりだ。
この当時は、みんなそれを生業にまだ営めた。
子供達の遊び場は、他人の土地でも何処だって。
駐車場はかっこうの遊び場のひとつ。三角ベース野球場でもあり、雑草の下の土をひっぺがえせば、図鑑に載っていないよく分からない虫達をこっそり家へ持ち帰り、お菓子の缶に隠したもんでしょう?
おりしも、大量生産チェーン店の食品問題が話題だが、この写真にある40年代半ばの商店街の朝は騒々しかった。
朝獲りで毛をむしられたばかりの鶏が目の前でさばかれていたし、豆腐屋やうどん屋の湯気は朝早かった。公設市場の魚屋の大将は家庭に合わせて切り身や刺身にしてくれた。
こんな小さい商店街でも悪い品を売れば、少し離れた商店街にたちまち上客を奪われる死活問題です。
しかし、こんな風景が姿を消して、もう30年になるでしょう。
懐かしんでいるのは、もしやボクだけなのか?
書きながら不安を覚えました。
書きたいことは山あれど・・・。
それでは、この辺りで筆を止めておきましょうか。