この文章を書き終える頃には日付も変わるだろう。
あと一日で、7月だ。
個人的には、生まれ月なので、まぁ特別な日か。
10代の頃には、一日も早く大人に成りたいと毎日思ったものだが、今はどうだろうか?
あちこち痛かったり、回復が遅かったり、致し方ない。
遠い過去のそれも子供時代を思い起こす癖が、益々増えた。
子供の成長を日々目の当たりにしている影響もあろう。
四十半ばにして、子供返りとはみっともない話だが、近頃急に中学時代の同窓会的な集まりの声が掛かる。
人生70年ちょっととしたなら、ちょうど折り返しから終盤戦に再度ギアチェンジする時期なのだろう。
昭和43年。
1968年この世に生を受けた。
高度成長期の後半、政治経済の混沌は、後に知る訳だから、実感は無い。
しかし、何となくだが、五感の何処かに当時の色褪せた記憶が断片的にだが残っている。
スモッグに覆われた黄色い空や、砂利道を車がガタガタ走っていた事、裏の家の風呂場の会話、朝来るバキュームカーの奮闘・・・。
特に耳と鼻の奥に残っている音と匂いがある。
「チョキン、チョキン、」という金属の擦れる音。
ツーンと鼻を突く、パーマ液の匂いだ。
そうボクは、パーマ屋のせがれとして、生まれたのである。
『パーマ屋』と今は誰も言わないが、あの頃は、全ての商売人さんは「〜〜屋さん」と呼称された。
勿論ウチにもれっきとした屋号がある。
「高木美容室」とテントには大きく文字があり、その下には、着付けの注釈もあった。
京橋の鴫野の長屋から店を出す為に移り住んだ母が店を切盛りし、婿養子で勤め人の父、海軍上がりの爺さんと文字の書けない婆さん、小さな家に住み込みの従業員も居た。
狭い道沿いに向かい合う地域の商店街だったが、賑わい活気があった。
商店街の先には市場があって、その路地は、幼いボクたちの恰好の遊び場でもあった。
ボクは「パーマ屋の竜ちゃん」で通っていた。
他にも「下駄屋の〜」「団子屋の〜」「花屋の〜」「肉屋の〜」「野菜屋の〜」
要所要所には、贔屓の駄菓子屋が乱立していて、癖のある独り者の婆さんが、じっと腰掛けている。
「かしわ屋のお兄ちゃん」の背中に立派な「もんもん」がある事は銭湯で知った。
「花屋の兄ちゃん」には、こっそり花札を教えてもらった。
「向かえの喫茶店の娘」の前髪を家から持ち出したハサミで切って怒られ、謝った。
さて、なぜこんな私事を書き留める事を思い立ったのか?
先にも書いたが、子育ての中で、どんどんと成長する息子の未来を考える様になった事が大きな要因だ。
ボクの微かな記憶を辿れば、彼と同じ頃の遊び場はパーマ液の匂いが充満した店舗であり、遊び道具は、近所のおばちゃん方の頭にくるくると巻かれた大小色とりどりのカーラーだった。
そして、漠然とボクの未来は美容師になるんだ・・・。
そんな風な思いが確かにあった。
しかし、運命というのか、人生はそんな簡単な歯車で回っていない。
家庭の事情が一変し、物心がようやくつく頃には、パーマ屋は廃業となった。
もうひとつ、この日記を書く動機がある。
先だってのヴィダル・サスーンの訃報である。
母の口からたびたび聞いた「サスーン」という語感。
「サスーン・カット」もある。
「ウルトラマン」「仮面ライダー」「タイガーマスク」「ジャイアントロボ」「バカボン」「ベム・ベラ・ベロ」「キューティー・ハニー」などと似た様に響く片仮名だ。
思い切って、実家の母に当時の資料は残っていないか、訊ねたら、サスーンに通じる当時のヘアカット見本の切り抜きが多数発掘された。
昭和46年と母の字で記されている。
笑うなかれ。この頃の最先端のヘアスタイルだとか・・・。
数あるサンプルの中から、抜粋してみよう。たっぷりご覧あれ!
「さ〜って、貴女なら、どのヘアスタイルを指差しますかぁ?!」
(おまけ)
この小さな紙製フォトファイルの裏面の店名には、ずっこけました。
こんな名前のカメラ屋、近所にあったけ???
結局、サスーンとも、息子の未来とも、なんにも関わりの無い結末でした。
要は、この実家のタンスの中から発掘された昭和46年のヘアカタログに吃驚したのでした。
良く言えば、勇気のあった時代です。
(中には、今に通じる物も?どうでしょう?)