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大きな代償。
JUGEMテーマ:音楽


 1月が終わった。

 季節感を感じる事の無かったこの冬。

 
 先週の水曜日から、ようやく少しばかり実感する事が出来た。


 100%ではないが、職場に復帰が叶ったのだ。


 それまでの生活は、たまに外に出るときには車椅子。家の中の僅かな距離は松葉杖で移動、他はどこかに掴まって過ごす日々だった。

 トイレや風呂に入るのも、ひと仕事である。


 年明けから始まった、リハビリの成果で痛めた左膝に力を加えられる様になり、車の運転も出来るほどに回復した。

 
 まともな社会生活を取り戻すには、まずは職場への復帰が何よりも不可欠なのだ。


 職場復帰と言っても、まずは丸二ヶ月の空白を埋める為に、不自由をかけた得意先や仕入れ先への挨拶回りに奔走する事から始まった。


 今回の事の顛末を会う人会う人へ逐一説明する。


 幸いにも返ってくる言葉の殆どが、有り難いかな労いの言葉ばかりだったのが救いである。

 
 自らの不注意がまねいた不始末なので、尻拭いは自分で拭わなければならない。


 スーツ姿に松葉杖と踵の無い靴。不格好はしばらくは続く事になるが、ひとつ胸の引っかかりが取れた気がした。



 もうひとつ引っかかったままの胸のつかえがあった。


 二ヶ月以上も離れたままだったブルースの現場である。


 療養中はブルースを欠かさず耳にしていようと心掛けていたつもりであったが、現場復帰が見えない時期は、すんなりとそれまで通りに入ってこないもどかしさに焦り、悩んだ。


 土曜日、シカゴロックで予定されていたマッドハープ加藤氏のライブで何曲か叩かせて欲しいと直前に無理を承知で頼んでみたら、あっさりと快諾をもらった。


 有り難かった半面、ブランクで迷惑をかけまいかと不安な気持ちで2ヶ月ぶりにシカゴロックの階段を松葉杖でゆっくりと降りる。

 相変わらずの換気の悪さが奇妙な安心感で出迎えてくれた。


 面子もいつも通り。

 大袈裟な挨拶も無いことが嬉しい。



 マッドハープ加藤氏に南部君と久米君のギターの編成によるゆる〜いシャッフルで、ライブはスタート。


 2ステージ目から、ベースのアキトとともにドラムセットに潜り込む。

 ハイハットを踏む痛めた左膝は、まだ95度から100度ほどしか曲がらない。


 案の定2ヶ月のブランクは、どうにもならなかった・・・。


 ライブが終わるなり、すぐにマッドハープ氏はじめメンバーへ謝罪する。

 
 翌日、その氏から「ボチボチとやりまひょ?」とメールが来た。


 
 
 出勤の行き帰りは、これまで以上にヴォリュームフルにして、ブルースをもう一度一から身体に染み込ませよう。



 今週末は、春にライヴを控えているアイパー大西&The Seeds Of Reedのメンバーに集合の号令をかけている。


 同夜シカゴロックには、ライブブッキングが無いらしい。


 それならちょいと押し掛けるか!?



 思い出したくもないあのテトラポット転落の際にも無傷だったカメラのシャッターを久し振りに切った。

 
 

 


 

 

 
 
| ブルース・エトセトラ | 23:13 | comments(8) | - | pookmark |
入院と手術と療養。(2)
JUGEMテーマ:日記・一般


 生まれて初めて手術台に寝かされる日が来た。

 まな板の上の鯉の心境だが、なかなかそうもいかない。


 何しろ全身麻酔と聞くだけで、あらぬ想像が膨らむ。


 病室のご老人は、足の指の骨をフォークリフトとぶつかって砕けたとか、迎えの人は胆石を患い、手術が8時間に及び、麻酔の後遺症だかで昼も夜も関係なく尋常ならぬ咳き込み方だ。


 麻酔科の医師には、なるべく術後の痛みを抑えて欲しいと弱気な要望をした。


 前夜からの絶食でよく眠れなかった朝からは、注射嫌いなら卒倒しそうな長い針から数種類の点滴を腕に刺し込まれたままだ。


 ようやく待ちに待った手術か!と思えれば良いが、小心者にはそうはいかぬ。


 「たら、れば」ばかり思っては、打ち消すのに必死だ。


 

 時間だ・・・

 手術着に着替えさせられて、エレベーターを降りる。

 寝たまま見上げる看護士さん達の顔は、いたって平然だ。骨折の手術なんてのは日常の当たり前の事なのだろう。


 ところがこちらの心拍数は、測らなくても分かるくらいに早くなっている。

 
 あらよっと言う間にストレッチャーに乗せ変えられて、心電図やらのいろんな器具が、テキパキと着けられていく。
 ホントにまな板の上の鯉だ。

 
 絵に描いた様なさっきの麻酔科の医師がまず現れ、腰に何度か注射を打ち、背中の辺りから何やら管状のモノをグイッと挿入している感覚をおぼえる。

 「そうか、これが要求した術後の患部の痛みを軽減する麻酔なんだな?」

 もうすでに下半身の感覚が無くなり始めている。


 次は、いよいよ全身麻酔だ。


 ドクドクと心拍数が上昇する機械音が耳に入って気になる。


 酸素マスクを吸引させられる。

 この為に悲しいかな10年来生やし続けていた口ひげとあごひげを綺麗に剃り落としたのだ。


 いつ眠りに落ちるのだろうと心配になり、看護士さんに、

 「すいません、あとどれくらいで麻酔かかりますか?」

 とかなんとか言おうかなと思っていたら、

 次の瞬間には、ストレッチャーで運ばれていて、ガチャガチャとその車輪の音が耳に入り、相変わらず腕やら色んなところに管が這っていて、家族の顔が視界に入って来た。

 
 なんと・・・もう終わっていたのだ!


 
 弱気なうわ言が無意識に口から何度か出ているが、自分では制御が出来ない。

 ともかく執刀医も太鼓判を押すほど無事に終わったと聞かされたことは何よりだったが、まる一晩ついには眠れなかった。


 たった一人のその一夜の孤独感といったら・・・。深夜に何度か堪らず看護士さんを呼んで、体の向きを変えてもらったりしてやり過ごした。


 翌朝ようやく少し体に張り付いたままの機器が外れたが、下半身麻酔は48時間効いたままだったし、点滴の管は刺さったまま、もちろん自力でトイレには行けない。

 

 左足は、ガッチリとギプスで足の甲から太腿まで固められている。


 でもこれで一山を越えた訳で、少しの安堵感も感じていた。


 これからあとは日にち薬になるだろうが、ここからが回復へ向けての本番であった。


 あと何回、この山から登る朝日を見る事になるのだろうと、夜が明けきらないうちに目が覚めては東の空を眺めて深い溜め息をつくのだった。

 


 先輩患者達からは、「年末年始は病院で迎える覚悟をせなあかんで?」と、すれ違う度に慰めともつかない助言で脅される。

 
 言葉通り諦めの境地にはなれず・・・悶々と相変わらず慣れないベッドの上で、ぼんやりイヤホンでとテレビを観て過ごす。(海老蔵、海老蔵でウンザリだった)

 
 数日後に最初の術後経過の為、レントゲンを撮る。


 太鼓判を押した夜診明けの執刀医は、レントゲン写真を見て開口一番、

 「うまいこといってますね、問題ないですわ!」

 「ちなみに退院っていつ頃になりますか?」

 思わず、自信たっぷりのその言葉につられて聞き返してみた。実は入院してすぐに最短での退院を希望していたのだ。


 「そうですね、この土日にでも退院出来ますよ」


 「ほんまですか!」

 あまりにあっさりしていて、思わず看護士さんと目を合わせて喜んだ。


 結局、初めての入院生活は僅か15日にすぎなかった。

  

 息子の誕生日にも間に合う!
 クリスマスも一緒に祝える!
 正月のお節も囲める!
 仕事の指示も出し易くなる!


 その後の不自由で難儀な生活は覚悟はしているが、我が家に戻れる喜びはひとしおのものであった。


 先輩患者達が、もう退院?と、怪訝そうな顔をしたのが可笑しかった。



 退院と言っても、長い自宅療養になる。

 バリアフリーの病棟が過ごし易いのだろうが、精神的な回復の方が最優先と考えた。


 実家で一日寝たまま、時々松葉杖で室内を移動という日々。
 2、3日に一度、車椅子に乗り込んで近所を徘徊。

 職場にも指示の為、何度か車椅子で事務作業をする必要もあった。


 そうしてようやく年末に忌々しいギプスから開放され、現在も着用する装具に切り替わって幾分身軽な正月を迎える事が出来た。

 年明けからは本格的にリハビリを開始。

 そして今に至る。

 現在は骨折箇所もほぼ新しい骨が出来つつあり、2分の1の加重がかけられるくらいに回復。

 松葉杖は手放せないけれど、堅くなっている膝関節も90度以上は曲げ伸ばしが可能になり、2ヶ月ぶりに車の運転も支障が無くなった。


 明日からは、本格的ではないにしろ職場にも復帰を果たす。


 社会から離れた2ヶ月のブランクは、想像以上かもしれないが、焦らずじっくりと回復を目指します。


 

 当ブログも12月は一度も更新が出来ませんでした。

 ましてや、新年の挨拶も書けなかったことも不本意でした。

 遅まきながら、本年もご愛顧頂ければ幸いです。


 『健康第一』


 「皇潤」とか「ヒアルロン酸」とか妙に耳馴染みになりました。


 
| TAKAGIMANの四方山な話 | 15:26 | comments(2) | - | pookmark |
入院と手術と療養。(1)
JUGEMテーマ:日記・一般



 「入院〜手術〜療養〜リハビリ」という一連の流れに否が応でも直面することになった。

 何しろ、人生で初めてづくしである。

 それも置かれた状況が余りにも不意だから、受け入れるのには相当に心が乱れた。

 
 とにかく迷惑をかけないところが無いくらい面目丸つぶれだから、始末しようにもどこから尻拭いを始めるべきかすらも整理がつかない。


 入院から手術までの約1週間がそれはそれは長かった。


 慣れない病院のベッドの上で、気が休まる時間が殆ど無い。

 
 これが辛い。

 特に痛めた足以外の頭と口は、達者だからさらに始末が悪かった。


 後ろ向きな思考にならない方が難しい。


 仕事の悩み。

 家庭の心配。

 音楽仲間に対する不義理。

 そして怪我の回復への不安もある。


 他の整形外科にかかっている患者さんからは、こちらの不安に更に油を注ぐ様な脅し文句も投げかけられる。


 骨折箇所は、左膝の関節部分が折れて、ズレている。骨の内部も陥没しているらしく、当初の診断では半月板も間違いなく損傷しているという。
 加えて腓骨も完全に折れている。

 手術方法は、こうだ。

 関節部分は、人工骨で埋め、ボルトで固定。腓骨に限っては、自然治癒しか無い。

 全治3か月という診断結果を突きつけられた。

 


 朝7時半朝食、12時昼食、夜は7時の夕食後、9時には消灯である。


 こんな日々を何日費やせば、元の体に戻るのか・・・?

 そんなことを考えただけで初日は、ほとんど喉を通らなかった。


 年末に差しかかる大事な時期だけに、特に仕事に関する焦りが、不安に拍車をかける。

 70を過ぎた母親を頼りに、コンビニまで走ってもらってはファックスを送ってもらうという毎日。ベッドの上では、謝りの電話や仕入れ先とのやり取りの電話ばかりで、看護士さんにはとうとう怒られてしまった。

 
 そんな作業に気を取られている間は、時間が経つのも早いが、そこからしばし開放された空白時間がまた苦痛だった。

 車椅子であても無く病棟を行ったり来たり。

 一体ボクはどうなるのだろう・・・?

 事を大袈裟な方向に考えてしまう。

 
 突然に社会から遮断されてしまった気がした。

 そんな途切れかける気持ちを救ってくれたのが、何と言う事か『携帯電話』の存在であったのだ。


 日頃、仕事か友人との簡単なメールの伝達手段としか認知していなかったケイタイが、心のよりどころとして機能する事になろうなんて思いもしなかった。


 とにかく、片っ端から知った人に、「こんなことになってしまった」とメールを打ち続ける。

 メールアドレスを知らない人には、MixiやTwitterを利用して呟く。


 驚いた人から、ドッと返信が届く。

 そのどれもが、心配してくれたものだったり、励ましの言葉であった。

 本当に有り難く何度もベッドの上で深夜に読み返した。



 数日経って、今度襲って来たのは、家族に対する申し訳なさだ。

 ちょうど年末は、息子のハレの一歳の誕生日が控えていた。
 日に日に成長する息子が、入院前も心の支えである。

 その息子にしばらくは会えないという事を認識し始めるともう耐え難いものだった。


 2度と会えない訳でもないのに、息子の写真と近況のヴィデオを持って来てくれ、と頼んだ。

 
 それを前にしながらの孤独な食事である。

 

 
 ただ嬉しい事には、聞きつけて(というかこちらが一方的に同情を誘ったとも言える)音楽仲間の友人知人が、お見舞いに駆けつけてくれたことである。

 口から生まれたくらいにお喋りなボクにとっては、来訪が本当に本当に有り難かった。

 「もうちょっと」と引き止める事もあった。


 皆さんのご好意はいつまでも忘れません。


 ・・・という過程を経て、ようやく手術台に寝かされることになるのは、

 12月6日の事である。

 

 

 
| TAKAGIMANの四方山な話 | 15:33 | comments(0) | - | pookmark |
テトラポット、あの時の記録。(3)
JUGEMテーマ:日記・一般


 呉の港に陽が落ちるのを見届け、友人の後を追って彼ら家族の新居へ再びハンドルを握る。

 

 思い返せば、まだこの頃は冬の寒さもこれからで軽装だった。

 この沈む夕陽もどことなく晩秋の暖かさが残っている気がする。



 問題の『朝』がやってくる・・・。



 窓から白み始めた朝を感じ取り、傍らでまだ眠っている子供を起こさずに、妻にだけ小さく一声だけ掛けてダウンジャケットを羽織り、カメラを首からぶら下げて、階下の友人にも気づかれぬ様にそろりとドアを開けた。

 友人宅の裏庭からは、すぐ目の前は瀬戸内海の海原が広がっている。


 少し向こうで静かに打つ波にまさに今から昇ろうとしている朝の太陽が、陰影をつけて待っていた。

 
 この一瞬しかないシャッターチャンスを見逃せまいと、躊躇することもなく堤防に駆け上がった。


 


 悦に入っている自分がいる。


 何枚かシャッターを切っては、海を眺め、またフレームを覗く。


 堤防越しの波と朝陽では満足しきれなくなった。


 そう「まさか」の坂が待っていた。


 
 堤防に沿う様に真新しい『テトラポット』が波打ち際を囲んでいる。


 もう少し朝陽に当たる水面を撮影したいという欲求が膨れ上がり、

 ついに思わず、その一歩を出してしまったのだ。



 歪なテトラポットに両足を渡してもう一度、海に向かってレンズの焦点を合わせる。


 なかなか想像した波しぶきを収めきれない・・・。




 ・・・・と、もうちょっとが余計だった。


 次の瞬間にボクは、いくつものテトラポットが絡み合った蛸壺状の隙間に落ち込んでいた。


 ここからの記憶はところどころが空白である。


 下半身に違和感を感じながらも、背丈程あったろうその蛸壺から這い出し、さっきの堤防に腰掛けていた。


 その間にすっかり11月28日の朝は明けている。


 
 左足がしびれている。他人の足の様だ。

 これは今まで感じた事無いな・・・。痛みは無い。

 「まいった、まいった・・・」まだそんな感覚だ。


 しばらくどうしようかと頭を掻いていたが、とりあえず戻らなきゃと、腰丈程の堤防から降りる事を試みたところ、事態が思うほどに軽くない事を自覚する。

 右足の次に地面に下ろした左足がぐにゃりと変な方向に曲がりそうな力の無さを察し、慌てて元の堤防に飛び乗った。


 どこにも外傷は無いが、ただ事ではない。


 たまたま咄嗟に持って出ていた携帯電話で妻に何度も連絡を取ろうとするが、やはり就寝中の様だ。

 当然だろう。まだ午前6時を少し回ったほどの時間だから。



 困った・・・。


 益々無感覚になる左足を堤防に伸ばし、頭を抱えていた。


 どれくらいそうしていただろう。


 裏庭に面するサッシがガラッと音を立てた。


 どうやら友人はボクが、こっそり玄関から抜け出していたのを知っていた様だった。


 青ざめて堤防に座っているボクとすぐに目が合い、身振り手振りで『SOS』の合図を送る。


 友人の肩を借りて裏庭まで進むが、左足がついに大きな悲鳴を上げて、ボクの置かれた状況を知らせてきた。



 もうここからの時間経過の詳細は思い出せない。


 呉の救急病院に担ぎ込まれて、レントゲン撮影。

 結果はご承知の通りである。


 骨折の痛みよりも事故を犯した自分自身に対する嫌悪感で、友人に代行運転を頼んだ大阪までの助手席での帰路は混乱していた。


 28日の夕刻、友人のおかげで大阪まで帰って来た。

 感染症対策で痛み止めを処方されずに当て木だけで固定していた左足が再び悲鳴を上げた。


 とにかく病院探しに奔走し、翌日入院の運びとなった。


 

 あの時から約2ヶ月・・・。


 様々な感情が高ぶったり、見通しのつかない不安と自己嫌悪、そして感謝の気持ち・・・。

 

 『禍を転じて福となす』


 今はそういった心境に変化しつつある。


 その分、得た物は大きいと振り返る事が出来るだろう。




 しかし、しばらくはテトラポットという言葉さえも身震いする。一生近づかないだろう。

 この画像が、28日事故の朝、最後に残した一枚である。

 きっとこのシャッターを切った直後には転落したのだろう・・・。カメラが全く無傷なのは不思議である。

 



 感情が高ぶった僅かな入院初体験記も次の日記に記録しておこう。





| 旅・街・エトセトラ | 09:47 | comments(2) | - | pookmark |
テトラポット、あの時の記録。(2)
JUGEMテーマ:日記・一般



 テトラポットまでの曲折を書こうと思いたったはずが、30年以上前に亡くなった爺様の話までずいぶん脱線を始めてしまった・・・。

 よくよく考えれば、もしも今回の怪我を負わなければ、呉港訪問の後日談は、今話し始めている爺様の事になっていた様にも思う。

 呉と爺様には、縁が深い。

 
 母から伝え聞いている元々のボクの家系は、愛媛の島にある。

 今はしまなみ海道が橋をつなげて、孤島ではなくなった「大三島」という土地にある。


 爺様が亡くなった後に、代々の墓を大阪に移す為に、大三島まで出向いたことがある。


 墓地とも気づかない草っぱらに、ボクのご先祖さんは眠っておられた。朽ち果てていてとても墓石には見えなかった。

 
 爺様から母への伝聞を信じれば、「我がご先祖は、村上水軍の末裔や」らしい。

 それはさておき、瀬戸内海に生まれた爺様は、呉の商船学校を出て、海運の仕事に就いたそうだ。


 そして大東亜戦争が始まり、爺様は連合艦隊通信兵・曹長として、南方の海上の戦地を転戦することになる。

 その海軍の一大本拠地が、呉の港という訳だ。


 
 口伝えを聞いて育ったボクは、
 
 「若い頃、ニューヨークへ渡った」

 「戦艦大和にも搭乗した」

 「ボルネオ島やフィリピンで戦った」

 「レイテ作戦にも参加した」

 亡き爺様を尊敬して育った。


 爺様は戦渦を生き残って翌年復員したので、戦後政府から贈られたのは、小さな勲章と戦歴だけである。


 ボクが絵本代わりに大切に読んでいた連合艦隊の歴史図鑑もそういった経緯で我が家の本棚にあった訳だ。


 カラーページには、明治以降に建造された軍艦・巡洋艦などが網羅されていて、たいていは憶えていた。

 
 卒業アルバムの寄せ書きに、その1ページにあった、神風特攻隊員の辞世の書の一節「誓期成功」を書いたら、担任の先生から好奇の目で見られもした。



 
 脱線転覆しないうちに、呉の『大和ミュージアム』へもう一度戻そう。


 館内の様子はこんな感じだ。

 戦艦大和の模型、零戦、実物の艦砲・・・

 

 

 

 

 丁寧で詳細な関連展示物もあり、連合艦隊の歴史を辿るには充実した資料館である。


 
 複雑な心境にもなった時間をおくり、広島家族旅行は愉快に続くはずだった。

 ・・・ここまでは。

 
| TAKAGIMANの四方山な話 | 11:39 | comments(4) | - | pookmark |
テトラポット、あの時の記録。(1)
JUGEMテーマ:日記・一般


 昨年11月27日の夜、新築の友人宅2階の部屋で家族3人川の字になって眠りに落ちて、一人目覚めてからの記憶は、鮮明であり、ところどころが空白になっている。

 あれから丸2ヶ月が経とうとしている・・・・。

 以来、ボクは自分の持つ2本の足で満足に立つことが出来ずにいる。

 松葉杖や何かの補助が必ず必要である。


 自ら蒔いた種で誰にも申し訳が立たない失態であるから、
 
 もう振り返りたくないとも考えた。


 それをブログに書き残したところで意味があるのだろうかと、この2、3日更新を再開するにあたって思案したが、あえてその恥を晒してみようと思い直したところだ。


 「反面教師」という例えがある。

 ボクの慢心が引き起こしたこのうかつな事態が、読者の方にそういう受け止め方をしてもらえまいかと、記事にまとめる事にしたのだ。

 これは、何年後かに、自分自身でも振り返る材料にもなろう。

 

 

 人生には、予期せぬ出来事がある。


 時と場所を選ばず、危険と隣り合わせで暮らしている事を身をもって経験することが出来た。

 ひとことで安全と言っても、これは日頃の心掛けで勝ち得るモノだと。

 「まさか」という坂があるとよく聞くが、今回の事故もボクの中では、そのまさかという坂だった。



 時間を昨年の11月27日まで、逆回転させてみる。


 直前の日記をさかのぼって頂ければ、ボクが広島に向かう事を文末に少し触れている。


 その通り、27日土曜日の早朝、装着した真新しいETCを利用して、中国道から山陽道を駈け、広島は呉を目指し自家用車のハンドルを握っていた。


 予定はこうだった。

 家族3人で、広島にいる友人宅に一泊し、翌日は広島市内へ移動、恥ずかしながらまだ一度も見た事もない原爆ドームに向かって頭を垂れようというバックリした計画であった。

 ここまでは家族初めての遠出であることもあり、意気揚々としたものであった。


 広島の西条インター近くで友人家族と待ち合わせして、回転寿しで腹ごしらえをしたあと、呉港へ誘導されて向かう。

 呉と言えば、今も造船業の本拠地のひとつであるが、明治以降、拡張日本の牽引を担った海軍における最も重要な地域である。

 ここに『大和ミュージアム』 なる施設が出来ている事を事前に聞いていて、案内してもらうことになった。
 
 
 

 
 大和とはもちろん、終戦間近に日本海軍の命運を賭けて建造された世界最大級の戦艦のことだ。出撃すぐに戦わずして海の藻くずとなり、敗戦の象徴として今も海底に眠っている。

 まだこの時期は、例の『宇宙戦艦ヤマト(実写版)』封切り前だったはずで、まだ賑わいもほどほど具合で展示品、模型などをじっくり時間をかけて見ることが出来た。

 それらひとつひとつに我が心の中で眠っていた童心の記憶が、沸々と蘇り、まだ年端もいかない息子は放ったらかしで、館内をくまなく巡る。

 
 もちろん首にはカメラがぶら下がっている。

 手当り次第にシャッターを切る。

 後にこのカメラが、ボクに災いと、ある意味では幸運を呼ぶことになるとは・・・。


 事故後、振り返ることが少し怖くて、パソコンに保存せず放置していたカメラの画像データを取り込んでみたところ、100数十枚も広島到着から、テトラポットの蛸壺の中に転落する直前までの風景が時系列に収められていた。


 さて、無数の日本海軍・連合艦隊の遺品や、当時の記録、精密に再現された模型を前に、幼い頃、絵本代わりに読んでいた分厚い連合艦隊図鑑を思い出していた。

 それは非売品で、装丁も重厚なものであった。

 
 余談だが、記しておこう。

 亡き爺様の記憶は、7歳で終わっている。

 記憶に残る爺様は、明治生まれにすればかなりの巨体をベッドに横たわっている姿である。

 今の様に介護事業など皆無の時分だ。

 60を過ぎて寝たきりになった老人に国は救いの手など差し伸べてくれる訳も無い。
 在宅介護が当たり前。運良く病院に入れたとしても、時期が来ればお引き取り、そして病院のたらい回しとなる。

 
 当然介護福祉なんて職業ももちろん存在せず、当時我が家は小さな町の美容院を母とばあさんと何人かの従業員が切り盛りし、猫の手も借りたい状況であった。

 昭和40年代後半のことだ。

 巨漢の爺様は病院で家政婦の介護を受けることになった。


 結果的に長患いとなり、家政婦の日当も家計の負担として膨らみ、美容院の経営も圧迫するようになり、店をたたむことになってしまった。

 そんな印象しか残っていない爺様の残像が、図鑑を読みあさった記憶とともに、この呉の港で思い起こされていた。

 

余談のつもりだったが、脱線をお許し頂きたい。
このあとも、亡き爺様の記憶と重ね合わせながら書き進めていきたい。


 

| TAKAGIMANの四方山な話 | 19:01 | comments(0) | - | pookmark |
久し振りの更新とご報告
JUGEMテーマ:日記・一般


 何から書き始めたら良いものかと、1ヶ月半ぶりに見る更新画面を開いてはみたものの、浮かんできません。


 この間、頭の中には、ずいぶん溜め込んできましたが、まだまだ整理がつきません。


 日々の思い立った呟きは、携帯電話で手軽にやり取りの出来る某SNSサイト内で近しい仲間とは伝え合って、少しは溜飲していたのですが、あの日以来放置したままのこのブログがなんとも気がかりでした。
 

 
 それはともかく、この場でご報告がままならなかったことで、もしかしたら少なからずおられる読者の方には、ご心配などをお掛けしていませんでしたでしょうか?
 それならまだしも、根っからの不安症の私、もう見捨てられてしまったのではないだろうかと余計な想像もしております。


 
 さて結論から言いますと、骨折しております。

 

 事の経過は簡単にこうです。
 
 
 昨年11月28日の早朝、日の出前午前6時頃。

 出先の広島呉の友人宅裏の瀬戸内海が一望出来る堤防で一人カメラを手に撮影中、テトラポットの上から過って足を踏み外し、そのまま隙間に転落。

 呉の救急病院に担ぎ込まれ検査を受けたところ、

 左足膝関節の骨と腓骨を骨折と判明。

 そのまま入院手術か大阪へ戻るかの選択となり、その後の事も考えて、大阪へ戻る事となりました。

 応急処置だけ広島で受け、友人に自家用車を代行運転してもらい、なんとか大阪までは戻って参りました。


 さて病院探しです。休日の日曜ですから外来が無い。
 折れたままの足をぶら下げて、2、3軒目の病院でようやく診察だけを受けました。

 病室が空いていない為、痛み止めだけを処方され一晩帰宅。

 翌日同病院に入院となりました。


 人生初めての事故で骨折という大怪我、全身麻酔による手術、入院生活・・・全てが初めてづくしで、戸惑いや不安の入り乱れた数週間を過ごし、年末の最も大事な時期に仕事には穴を開け、家族には大変な心配を掛け、一方その間には友人知人からの心優しいお見舞いのお言葉に励まされ、この間の気持ちを今ぴったりと言葉に表現出来ないくらいに心が動きました。


 ギプスのまま12月中旬には退院させてもらい、現在自宅療養と通院リハビリで、車椅子から松葉杖にと少しずつですが回復しております。


 思い返せば、よくこれくらいの怪我で済んで不幸中の幸いだったと、良い方向へ考えが変わりました。

 それこそ状況が状況だけに、条件が違えば「取り返しのつかない事になっていたかもしれない」・・・そう思うと、ぞおっとします。


 ・・・という訳で、TAKAGIMANはいたって元気であります。

 五体満足の有り難みを、42歳にもなってあらためて感じながら、家族揃ってお正月も迎えておりました。

 シカゴロックのジャムセッションのホストも2度欠席していたり、年始にブッキングした東京ブルース勢との新年会ライブも欠席、そんなことよりドラムに2ヶ月座っていません。
 
 春にはアイパー大西の地元、三重松阪でのライブもあります。

 
 仕事にはまだ復帰出来ていないことが気がかりですが、ここは天から与えられた休養と思い、しっかり完治して、現場復帰をします。


 ボチボチと頭の回転数もリハビリが必要なので、ブログの更新で回復を図りたいと思いますので、引き続き今後もお付き合い下されば幸いです。


 きっとTAKAGIMANの入院記みたいなことから始まるかな?

 それもだいぶ大袈裟に・・・??

 
 

| TAKAGIMANの四方山な話 | 17:02 | comments(10) | - | pookmark |

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