『想い出』
と、ひとくちに言っても、その形は異なる。
引き出しの隅に人目に触れない様にそっとしまってあるもの、あるいは、いつでも手の届く本棚に並べているもの、埃にまみれて乱雑にしてあるもの・・・
先日の土曜日一日は、そんな色んな想い出の中にあって「大事に額に飾ってあるもの」
その日々から足掛け26年の月日が流れている。
中学生活3年間、盆と正月以外夕暮れまで共に汗した仲間との再会だった。
入学した12歳のボクはバスケットボール部に入部した。
理由は同級生達よりも少し背が高かったという単純な動機だ。
同時に一人の先生が転勤でやってきて、顧問となった。
只の部活だと考えていた同級生達は、間もなく放課後は震える事になる。
ブラウン管から飛び出て来た様な「熱血先生」は、地域でも全く無名の我が中学校バスケットボール部を「全国大会に連れて行く」と入部間もない素人同然の少年達に堂々と宣言したのだ。
大半の新入生は、バスケットシューズさえ持っていなかった。いなかったというより、週に僅か2日、それも体育館の半面だけを使用出来るという環境しかなかったので必要がなかったというのが正しい。
50人以上居た1年生は夏休みになる頃には30人程に減っていた。猛烈な練習のせいである。
体育館が使えないから、運動場に2つあるゴールを並べてゴムボールで練習しかない。
ボールを触らない時間は、ひたすら走り、腹筋背筋のサーキットトレーニング、おんぶをしてダッシュ、雨の日は、校舎の階段を何往復も上り下りする。
今は環境がそうさせないだろうが、当然水など練習中に補給なども許されなかった。
「もう辞めてまおう!」何度思ったか数えきれない。
しかし、そんな弱音も13歳の少年達に鬼の先生が植え付けた暗示が、いとも簡単に打ち消していく。
キツい練習なら他校も似たり寄ったりだったのかもしれないが、違ったのは結果がついてくることだった。
『勝利』という思わぬで対価である。
この痛快さは、多感な中学生の単純な思考回路を一本にまとめた。
最初はとんでもない暗示だったことが、3年生になった時は、明快な目標として部員の全てが共有している。この時下級生も含め100人を超える大所帯となっていたのだ。
暗示は現実になり、地方大会から負け知らずで、全国大会に出場し、1次リーグも難なく勝ち抜き、トーナメントの準決勝まで進んだ。
3年前の暗示が、すぐ目の前にある。
運良く小生も100人の代表としてユニフォームを着てベンチに座らせてもらっていた。
あの1983年の暑い夏。
開催地山梨県の河口湖は直前に吹き荒れた台風被害で氾濫していた。
試合結果は、神奈川県のチームに1点差で負けた。ちなみにその学校はその後の決勝を快勝して優勝旗を授与された。
泣きに泣いた。誰彼なくみんなが泣いた。鬼の先生も輪の中で泣いていた。
今年42歳になるが、あの悔し涙を越えるものをこの先の人生で流すことがあるだろうかと思う。
あの日から26年、鉄拳制裁は当たり前だった鬼の先生が定年を迎えた。
一期生の小生以降、先生の手腕によって、同じ過酷な練習を耐えた後輩達は、輝かしい記録を残した。10年連続全国大会出場、その間全国2連覇を果たした。
同期には、日本リーグで活躍した男もあるし、審判員、あるいは指導者として今も活躍している後輩達も多数輩出している。
転々バラバラになった1期から17期生達が「先生を囲む会」に集った。
母校のコートで、26年ぶりに懐かしい顔との試合を楽しんだ。当然ながらメタボなお腹を揺らしてである。
場所を移した囲む会は、一瞬にしてあの時代に戻り、同級生達と尽きることない想い出話に終始賑やかである。
何発のビンタや尻を蹴り上げられたかも数えきれない鬼の先生は、柔和になって微笑みながら、昔のエピソードのひとつひとつを記憶しておられた。(ただ、余りに風貌の変わり過ぎた小生だけは仕方ないかな気づいてもらえなかった。同期生も同様な反応である。)
宴も終わる頃、先生がスピーチのマイクを握りしめながら声を詰まらせて泣いている。
小生の目からも言いようのない涙がボロボロとこぼれた。隣の同期生や後輩達も同じだったはずである。
いつの間にか、次回開催へ向けた幹事の一人に小生も名を連ねる事になった。
飾ってあった想い出にもう一枚追加が出来上がった。
4つ下の実弟も同じ経路を辿っているので、翌日、アルバムを付き合わせながら続きをやった。
おかげで26年目の笑いと涙と代償は、太ももの鈍い筋肉痛としゃがれ声となって、
清々しい余韻となって残っている。