雨上がりの土曜日。
満開の大坂城の桜を見るわけではなく、
その脇に面したホテルの宴会場に懐かしいと表現する以上の顔が集った。
18人の教え子と二人の恩師そして先輩。
出逢いから30年を経過した歳月は、記憶から良き想い出に形を変えている。
恩師の一人でもある某先生の音頭取りで祝杯があげられた。
某先生の30年前は、相談室、簡単に言えば『お仕置き部屋』で鉄拳制裁が日常茶飯事だった。
お祝いされるのは、もう一人の恩師だ。
昨年定年を迎えられたが、今も他校で教壇に立ち、ボクたちがそうだった様に、ある競技を指導しておられる。
バスケットボール。
ちょうど今頃、30年前の13歳になろうとする春、ボクはこのクラブに入部した。
勿論その後に待ち受ける過酷な毎日を知る由もない。
顧問に就任する先生が、転任してきた熱血、鬼のバスケットボールコーチである事も。
当時、バスケットボールという競技に対するイメージは軟弱とも見られた。
スポーツと言えば、野球かサッカー、もしくは武道を志す人が主流だった気がする。
どういうわけだか、そのバスケットボール部に大勢の新一年生が集まる。
過去に目立った成績をあげた噂も聞かなかったし、先輩の人数も少ない。
さて、その顧問の先生の指導が本格的に始まって、それまでのバスケットボールや部活に対する考え方が一瞬で吹っ飛んだ。
練習はもっぱら運動場である。
使うボールは、僅かなゴムボールだけだ。ゴールも女子と分け合って自由に使える物はたったひとつだけ。
授業が終わり陽が沈むまで、ずっと走ったり、飛んだり、また走ったり・・・。
大勢居た体験入部の友人は、次々に脱落して放課後に来なくなった。
「やめます・・・」
何度、思っただろう?
素人同然の13歳の部員を先生はどう思っていたのか?
土曜日問うのを忘れた。
ともかく、そんな月日は、暑い夏も凍える冬もどしゃ降りの雨で洪水の日も盆も正月も朝練だって毎日、途切れる事無く続いていく。
学校には、バスケットボールの為に登校する。
最終的に3年生の夏休み、同じ学年で残った38人。
あの3年間は現在、先生とボクたちのかけがえのない宝物になっていた。
ボクは実家に保管してあった、当時の記念品や掲載雑誌などをありったけ持参した。
もう一人物持ちの良い部員が持参した私物には、朝練のシュート記録表や公式試合のトーナメント表などもあって興奮した。
極めつけは、最後の夏の試合のヴィデオの発見である。
忘れもしない昭和58年の夏、山梨の河口湖での準決勝に全員で流した涙。
そして鬼の目にも涙がいっぱい溢れていた。
そして、後輩たちが数年後にボクたちと恩師の夢を実現させるのである。
この機会に探し出した卒業間際にまとめた部活の冊子の冒頭、恩師はこう綴っておられる。
タイトルは『夢』
いつも口癖の言葉が、ひと際大きく太字で書いてあった。
「栄光に近道はなし!」
柔和に笑う恩師をすっかりと中年になった教え子があの頃と同じ様に見上げる。
中学校の校歌などうる覚えでも、みんなで作詞をした応援歌は誰はばかる事なく歌えた。
次回の機会には、必ずこう言おう。
「かけがえのない宝物を頂き、先生、有り難うございました!」