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幼き頃の写真に見るある風景。
JUGEMテーマ:地域/ローカル



 7月ももうあと数十分で終わる。

 私的なことだが、今月は生まれ月だった。

 ちょうど京都では祇園さんのクライマックスの日であった。

 ひとつまた歳を重ねた。

 いよいよ40代も後半戦に突入である。

 重ねた分だけ人間的に厚みが増すのなら歳を取るのは結構なことだが、願望に過ぎないことは自分が一番分かっている・・・。


 先日のこと。30以上歳の離れた母校の後輩達が躍動する場面に立ち会った。

 示し合せた訳ではないが、同級生も席を横にした。

 そのもうひとつ隣の席に座る同級生は、息子さんが一目で役目が分かる背番号を背負って、コート上を走り、跳ぶ。


 観戦し始めて否やボクの中にずっと眠っていたある情感が、時間軸を飛び越えて身体から出現していた。

 この匂いであり、ざわめき、音、何もかもが脳のどこかを突っついている気がした。傍らにいるさっきの男の口から発する言葉からも感じることが出来た。


 「結果を追い求めるよりも過程の方が大事だ」的な発想をさも口にする人をボクは失礼だが余り信用しない。

 客席から見下している15歳の少年達は、正にその「結果」の為に日夜汗を流し、時には涙も溢れ、苦しかったら逃げ出すことだって簡単だったはずである。

 翌日夕刻、「結果」が最高のものだった事を速報で伝え聞いた。
 
 さっきの男は、また現場にて見届けたそうだ。

 彼も30年経った月日を手繰り寄せながら、眩くきらめく15歳の青春に己を投影しているのだろう。(違ってたらゴメンね?)


 その夜だったか、幼い息子の行儀悪さを叱った・・・。

 彼は泣いて非を認めない。

 よくあることなのだが、その夜のボクはどういう訳か寝付きが悪かった。


 次の日の朝、出社後職場から家人にメールをし、唐突に、

 「自転車買うたろ、今日!」

 「今日??」

 自分でも苦笑する思いつきだ。


 前夜の親としての未熟さを「モノ」で取り繕うなんていうのは一番最悪なんだろうなぁ。

 

 「夏になったら買ったる」約束を果たしたことにしておこう。

 そう言い聞かせる。

 息子は、今のところ2日間その「モノ」の虜である。

 またベソでもかけば、叱ってしまうんだろう・・・。



 実家に寄る。

 母は、世間から見れば、独居老人である。

 本人はいささかも思っていないだろうが、傍から見れば「後期高齢者」

 町内でも指折りの元気者と言っても本人も否定しないだろう。


 そんな母が、先日幾つかの町内の事情を話した。

 「ほら、並びの何々さん亡くなりはってん。」

 「あの長屋、どうも立ち退きの地上げ来てるらしいわ。」

 
 「ほう・・・」そうしか返さなかった。


 「人も歳をとれば、誰でもいつかお迎えが来る。

 早い人も時々居はるが、順番は仏さんか神さんかが知ってるんやわ。」


 生まれ育った町が日々様変わりし、当然ながら人も入れ替わる。時が経てば至極当然のサイクルなんでしょうが、どこか一抹の寂しさを感じる会話があった後日、滅多に入らない母の部屋の本棚をゴソゴソと探した。

 息子を叱ったボクが、ちょうど叱られていた時分の風景を確かめたかった。


 何年かぶりに手に取ったあの頃流行った某メーカーの粘着式アルバムの中には白黒写真や色褪せたカラー写真に幼い自分が現像後何十年も封印されたままだ。


 ずっと以前ブログにも書いた通り、我が家は大阪中心部の東に位置し、3つの市が合併してひねりの無い名前であるが、数十万人規模、通勤に便利なベッドタウンである。

 狭い道を挟んで三軒長屋が軒を連ね、公設市場を核にして10数軒向かい合った個人商店の中のパーマ屋(美容室)の息子として生を受けたのだ。

 パーマ液と市場の裏路地の匂いの中で育った。


 アルバムの中に残った商店街の風景は今や名残さえ失ってしまった。

 公設市場は、幾度かスーパーに衣替えして今年ついに更地になった。

 地上げは、そのあおりを食ったものらしい。何故なら我が家もそうだが、町内一帯は幾つかの地主と契約している。

 要するに借地なのだ。

 数軒残っただけの商店の末路が気にかかる。

 一軒の店主にはボクがチビの頃、花札を教わった。もう一軒は、普段は寡黙だが一旦話し出すとどこで止めるか機会を失うお喋りな店主・・・。

 
 商店街唯一の娯楽施設ボーリング場は、ブーム終焉後すぐさまパチンコ屋に衣替えして繁昌した時期もあったが(ボクもずいぶんと世話になった)、先日更地になった。大型のスーパーになると噂だ。



 表紙と中身がばらけそうになるアルバムの数枚にスマホのカメラの焦点を合わせてみる。

 今、正に自分が直面している葛藤が吹き飛ぶ気がした。

 自分もこの土地に偶然か必然が生まれ落ち、たくさんの人や地域の中で育ち助けられて、今ここにいる。

 「今、ここにいる。」

 素晴らしいじゃないか。


 町が変わっていく。

 人も変わっていく。

 変わらないのは、この写真にいるまぎれもないボクである。


 何年か前に、よく通った銭湯のおばあちゃんに言われた。

 「あらぁ〜、りょうちゃん、大きなったな〜ぁ?」

 「ええ、まぁ、なんとか、おかげさんで・・・。」



 うっかり読まれた方にとっては縁もゆかりも無い「ある風景」ですが、ボクにとっては時が過ぎ「ある特別な風景」となったのです。




 「美容室」の前。月極駐車場。
 白衣姿の母に抱かれるボクと思われる赤子。

 現在は、地主が土地を手放し、建て売り住宅になった。

 商店街時分の目抜き通りである。




 家の前で三輪車に乗るボク(2歳?)道は当然ながら鋪装されておらず地道。週何回か来るバキュームカーが大好きだった頃。

 向こう側に商店が並ぶ。年末年始は万国旗がこの細い道の空に揺れていた。





 商店街の子供達。

 ちょっとお姉ちゃんやお兄ちゃんがまとめ役。親はなくとも子は育った。

 ほっぺたが膨らんでいるのは、みんな誰にもらったのか飴玉のせいだろう。




 公設市場、商店街に活気があった頃だろう。

 町内の慰安旅行と思われる。

 ×印は、ボクと付き添いの祖母。

 「洋品店」「靴屋」「鶏肉屋」「肉屋」「豆腐屋」「八百屋」「本屋」「饅頭屋」「荒物屋」「瀬戸物屋」「うどん(麺)屋」「本屋」「駄菓子屋」「手芸屋」「化粧品屋」「車修理」「酒屋」「米屋」「衛生用品店」などなど。

 今なら、全部ひとつのスーパーで揃うものばかりだ。


 この当時は、みんなそれを生業にまだ営めた。




 子供達の遊び場は、他人の土地でも何処だって。

 駐車場はかっこうの遊び場のひとつ。三角ベース野球場でもあり、雑草の下の土をひっぺがえせば、図鑑に載っていないよく分からない虫達をこっそり家へ持ち帰り、お菓子の缶に隠したもんでしょう?


 おりしも、大量生産チェーン店の食品問題が話題だが、この写真にある40年代半ばの商店街の朝は騒々しかった。

 朝獲りで毛をむしられたばかりの鶏が目の前でさばかれていたし、豆腐屋やうどん屋の湯気は朝早かった。公設市場の魚屋の大将は家庭に合わせて切り身や刺身にしてくれた。

 こんな小さい商店街でも悪い品を売れば、少し離れた商店街にたちまち上客を奪われる死活問題です。



 しかし、こんな風景が姿を消して、もう30年になるでしょう。

 懐かしんでいるのは、もしやボクだけなのか?

 書きながら不安を覚えました。


 書きたいことは山あれど・・・。

 それでは、この辺りで筆を止めておきましょうか。

 


| TAKAGIMAN/1968 | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
DON'T THINK, FEEEEEEL!!!!
JUGEMテーマ:映画



 「アチャ〜〜〜!!!」

 今朝方の某FMを聴いていて知った。


 子供の頃の三大ヒーローの一人、(ちなみに他2人は、アントニオ猪木と松田優作だ)

 
 ブルース・リー(李小龍)

 没40年・・・。




 

 1973年7月20日。

 32歳という若さであった。


 計算すれば、ボクは、5歳になったばかりである。


 日本でのブルース・リーの爆発的人気沸騰は、彼の死後の事だ。


 彼の死直後に公開された映画。

 『燃えよドラゴン(Enter the Dragon)』



 くしくも先日、映画の重要出演者の一人、Jim Kelly氏が亡くなったところである。


 さて、ここであらためて時系列に検証してみたら、ボクの記憶が曖昧な事に気が付いた。

 ボクは、この「燃えよドラゴン」を劇場で観たはずだとてっきりと思い込んでいる。調べたら日本公開は、その年の暮れとなっていた。

 では5歳児を果たして、まだ日本ではブームが始まる前の無名に近かったブルース・リー映画に親が連れて行くだろうかね?

 しかし、ボクの机の引き出しには、ブルース・リーの葬儀の写真がページ後半に掲載されたパンフレットが(後々切り刻まれて、壁中に貼られるのだが・・)あったことだけは確かである。

 もう少し時系列に追う。

 亡きブルース・リー・ブームが、一気に日本を席巻するのは、翌1974年に入っての事の様だ。

 燃えよドラゴンは、アメリカ香港の合作だが、それより前に撮影された映画「ドラゴン危機一髪」や「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」などは、1974年に入ってから相次いで国内で上映されている。


 ここで、母の口癖を思い出す。

 「あのコロシアムみたいなところでの闘いは良かったわ。」だ!

 そうそれはもちろんあの名シーン『ドラゴンへの道』でのチャック・ノリスとのラスト一騎打ちのシーンである。

 映画の日本公開は、1975年1月。ボクは、6歳である。確かにうなずける・・・。


 切り刻まれたパンフレットさえ一片でも残っていれば、溜飲するところだが、「燃えよドラゴン」の残像は鮮明に瞼に40年経っても焼き付いているし、「アチャ〜〜〜」と上半身裸で真似をし、美容師だった母に頼んで髪型をリーみたいに懇願した事は確かである。


 ちなみにもう少し調べてみたら、各映画のテレビ初放映時期だが1977年〜1979年とずいぶんと前後している。

 もしかしたら、この何度も再放送されるテレビ版とオーバーラップしているのかもしれない。
 
 それだけ息の長いブームだった証拠とも言える。



 




 

 冒頭のFM情報に戻るが、没40年を記念して、地元香港では「ブルースリー回顧展」が20日から開催されるのだとか。今でも英雄である。

 そこでは触れられていなかったが、只今ここ日本でも題して、

 『ブルース・リー祭り』が幕を切っていた。

 不覚にもチェックしていなかった・・・。

 http://www.brucelee2013.com/

 下の予告編を観るだけでもあの頃の血が騒ぐじゃないですか!






 ひとつ違う方面での検証材料が手元に残っている。

 これは重要な証拠かもしれない。


 本ブログでは、きっと2度目のご登場になる。

 倉田保昭氏だ!

 和製ドラゴンと言われたが、リーの生前から香港で活躍していた。

 ハードボイルド!『Gメン’75』でもカンフー使いの刑事役で大人気を博した。

 彼が主役の名物シリーズ香港ロケでは、本家「燃えよドラゴン」でもリーと死闘を演じたヤン・スエ(そのシリーズが待ち遠しかった我が家では、その筋肉を表現してコチコチマンと名付けた)が登場し、倉田と何度も闘う。


 Gメンに出演前の1974年の7月放映開始とあるのが、

 彼が主演『闘えドラゴン』だ。


 それが、ブルース・リーにあやかったものである事は疑い様も無い。

 ボクの手元には、その闘えドラゴンのカードが専用アルバムと共に無数に残っている。駄菓子屋だかで売っていたのだろう。

 オープニング動画を見つけた。ご存知、子門真人さんの熱唱!




 リーの研ぎすまされたボディーに比べて、倉田氏の分厚い身体もあらためて魅力的ではないか。

 

 



 このテーマソングは、一度聴いたら耳から離れないし、自然に半身になってステップ、鼻に親指、タオルでヌンチャクの真似をしてしまう。

 撮影風景のメイキング動画を貼付けておこう。

 リーが、並々ならぬ意気込みだった事が、殺陣の指導風景からも伺い知れる。

 


 そして、ブルース・リーに夢中だった人との会話には否が応でも必ずこの言葉が飛び出す。

 一種の合い言葉ですね。

 でもこの台詞が語られるシーンをもう一度下の動画で回想すると、奥が深い。

 リーの思想が見事に反映されている。


 「Don't Think, Feel」

 「考えるな、感じろ」


 



 この拳に燃えない漢(おとこ)がいますか?





 ちなみに、ここに掲載したブルース・リーの画像の全ては、ネット上から拝借したものではありません。

 これも当時駄菓子屋で収集したカードであります。







| TAKAGIMAN/1968 | 23:50 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
早春に芽吹く「セーラー服と機関銃」
JUGEMテーマ:日記・一般



 先週、営業移動の車中の公共FMから連続して流れるちょっと懐かしい曲を思わず一緒に口ずさんでいた。


 いずれも当時のヒット曲であるが、聴くのはもっぱらにTVやラジオ番組から繰り返し流されたものばかりだった。

 ただ何となく、耳にしていただけだったはずの曲が、何故二番までほとんど間違わずに空で唄えてしまうのか不思議である。

 

 昼どきの何日か続いたこの番組の構成が、春をテーマにした曲を並べた企画だと分かった。

 共通するキーワードの大半は、「卒業」「別れ」「旅立ち」「青春」といった遠い過去にあった心境を唄っている。


 「春」に、そうした一種特別な感傷を覚えるのは、日本人特有の心の動きなのだろうか?


 確かに、そうした青春期の小さな変化は、想像以上に大きな経験であった。


 
 その頃ひねくれ者だったボクは、感傷的に受け止めることなど皆無に等しかった。

 例えば「卒業」なんて儀式などは「解放」の喜びに満ちていた。


 
 最後の卒業から、もう四半世紀が過ぎ、ボクもどこをどう若作りしたところで、それと見抜かれる立派な中年オジさんだ。


 「なんだかなぁ」と、しめっぽい歌詞を口ずさみながら、どこかで感傷的な気分でハンドルを握っている事に、ドキッとした。近頃よくあるのだ。

 「この感覚、何だろう?」

 あろうことか、元々弱い涙腺まで少し緩みそうになりで、これは始末に悪い。


 
 イントロからエンディングに繰り返されるサビまでほぼ空で唄える曲が流れる。

 『セーラー服と機関銃』


 現在40代の人ならば、すぐに思い浮かぶだろうあの映画主題歌である。

 1970年代後半から80年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした角川映画。

 その看板子役から女優への階段を昇り始めた
 
 薬師丸ひろ子の主演作である。

 原作は、赤川次郎。

 メガホンは、故・相米慎二。

 
 

 劇中マシンガンをぶっ放して呟くあのセリフは、日本映画に燦然と残るシーンだ。今で言うところの流行語大賞だろう。


 この映画公開(1981年12月)と同時に主題歌はヒットチャートを駆け上がり、毎週彼女は、良い意味で抑揚無く無機質にブラウン管の中で唄っていた。

 さてなぜ、この曲を30年後も耳が憶えているのかには、明確な理由がある。


 この冬、ボクは、13歳。

 中学校1年生。



 思春期を迎え、やり場の無い怒りや苛立を抱えていた。

 その矛先は、時に親や教師、大人に向く。



 この扇情的な「セーラー服と機関銃」というタイトルは、詰め襟のボタンの中に隠れた思春期特有の不安定さをピタリと表現している。

 『合唱合奏コンクール』

 記憶があやふやだが、そうした学校行事があった。

 1学年12クラス、生徒が自主的に課題曲を選び、各クラス競い合うのである。


 ボクは、どういった経緯だったのか定かでないが「文化委員」とか言うクラス内で肩書きをぶら下げていた。

 担任の先生立ち合いのもと、課題曲は投票だっただろうか

 「セーラー服と機関銃」にほぼ満場一致で決定した。

 この選曲が後々に大問題となり、ボクの耳の奥に以来ずっと刷り込まれることになるのだ。



 担任は堅物女性国語教師。

 「合唱曲として、相応しくないわ。」

 すぐにクラスメートから沸き起こる反発の声は、想像出来るだろう。


 お互いに引き下がらず、最終的には担任教師は練習への関与を拒否した。

 紛糾したやり取りの中で、誰かが言い出したある要求がコンクール後に起こった大問題の種となる。


 「文化委員」として壇上に居たボクは、きっとその渦中の真ん中に居たのだろう。


 その日から放課後は、生徒達だけで、「セーラー服と機関銃」の練習が始まる。

 
 威勢よく啖呵を切ったが、最初は部活の友人の練習風景が気になって、何度も窓から運動場を見下ろした。

 大人不在13歳の男女40人余りでの共同作業が上手く進むはずもない・・・。

 

 すぐに仲違い、責任のなすり合い、不協和音は、ボクの身にも当然降り掛かる。

 今すぐに「おれ、や〜んぴ!」と投げ出して部活の練習に走って行きたいところだ。


 
 しかし、13歳の大人への反抗は、安々と引き下がれない。

 ある「言葉」への意地もあった。


 指揮棒は役回りでボクが振っている。

 大事な部活動に穴を開け、夕暮れ時まで延々とあのイントロがピアノで流れるのだ。


 それもこれも、原動力は権力への小さな抵抗だった。


 結果を言えば、本番の舞台では見事に優勝の裁定が下った。


 
 さぁさぁこのあとのホームルームは、荒れた。


 

 「勝ったら、土下座する。」

 これがその『言葉』である。

 決定の際に担任教師の口から出た言葉かどうかは、今もって確信はない。

 但し、あの場では、そんなやり取りと雰囲気にきっとなったのだ。


 黒板を背にした教師という聖職の大人が(それも中年女性だ)、40名を越える教え子達から巻き起こる「土下座コール」を一身に浴びる。


 
 ついには涙したが、断固謝らなかった。


 そしてボクは、首謀者・先導役の一味として数名と共に『相談室』で待つ男子教諭に囲まれ・・・。



 この唄には、こうして書くうちに恥ずかしくなる甘酸っぱい反抗期の記憶を蘇らせてくれるのである。


 あらためて聴くと、唄い出しの深い歌詞や優しいメロディーは、秀逸な曲だと思う。

 タイトルが、我慢ならなかったんだろうなぁ〜きっと。


 作者の来生たかお氏が唄いこちらもヒットした異名同曲『夢の途中』だったら、有無を言わさず了承されたでしょう。
 (ちなみに、中森明菜「セカンドラブ」や大橋純子「シルエット・ロマンス」なども彼の作品ですね)




 

 さよならは、

 
 別れの言葉じゃなくて、

 
 ふたたび逢うまでの遠い約束




 

 公園に咲く桃の花が、






 芽吹き始めた桜のつぼみが、






   春は、そう!もう目前です!





 

| TAKAGIMAN/1968 | 22:35 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
ついに積年の疑惑を晴らす『証拠資料』を発見!
JUGEMテーマ:日記・一般


 
 数日前に日記にした『パーマ屋』ネタをご記憶でしょうか?


 あの資料が、実家の本棚から発掘された時に、もうひとつ驚くべき(これも個人的に)中性紙の切り抜きが何十年かの時を越えて日の目を見た。

 それをしまったままにした母張本人ですら記憶の彼方に置き忘れた物だった・・・。


 『十代目菊号』と題された、何かの雑誌の特集の切れ端である。


 B4版ほどに色褪せたカラー写真と古い書体の写植文字。


 この切り抜きを見せられたボクは、思わず、

 「なんじゃ、こりゃ〜」(ジーパン刑事風に)と飛び上がった。

 その記事にボクが写っているというわけではなく、写真の中にある消失しかけていたセピア色の記憶が、蘇ったからだ。


 そんな訳で、今夜もブルースの話題とは一切無関係な日記になる。

 奇特な方だけ、お読み下さい。




 タイトルに、『積年の疑惑』とした。


 ボクはかねてから、この話題を人に告げると、決まって返ってくる言葉は、

 「嘘やん!」

 「作ってる!」

 「んな、馬鹿な!」


 いくら説明しようとしても、その事実が幼かったボクの記憶の片隅にかろうじて存在しているのみで、事細かい証拠を提示出来ず、「作り話」扱いされてお終いになることが殆どである。


 今まで、ボクの事を虚言癖、嘘つき呼ばわりした者達よ!

 まずは、この写真をとくと、見なはれぇ〜!



 


 
 ボクの『嘘』とは、以下である。

「オレな、幼稚園の通学は、馬車やってんで。」




 「これが、証拠だ!どうだ?」某君達。


 時は、昭和48年の事と思われる。
 (それは、この切り抜きの裏面に掲載されたある記事で想像出来る。これも証拠の一部として後述しよう)



 写真の通学路が一体何処かはもはや判別不能だ。

 しかし、馬を待つ幼稚園児と保護者が確認出来るでしょう。

 鋪装されていない畦道の様な砂利に驚かされる。

 それが校区内である事に間違いはないだろう。


 次の写真は、到着した園内の様子だと思われる。

 馬と戯れる園児の笑顔だが、これはボクの記憶に薄い・・・。
 よくある取材用のカットかも知れない。
 
 



 さて、ここまで書いたが、馬車通園の詳しい文章が、そこには添えられている。

 これも動かぬ証拠として、抜粋、引用する。


 
「馬は利口なもんでんなあ。このクルマの洪水のなかを走ってて、まだいちども事故にあわんですわ。馬車の幅や大きさをすっかりのみこんどるし、交差点にくると、黙っててもピタリと止まるんです・・・」

 大阪から電車で約一時間。生駒の山すそにひろがる河内平野ー東大阪市にある「菊水園」のご自慢は、千二百人いる園児のため、いまも毎週水曜と土曜日に「通園馬車」を走らせていることだ。

 その馬車は、同園が昭和七年に開園していらいというから、もう四十二年目。もっとも、太平洋戦争がはげしくなったとき、三年間だけ馬が徴用されて休んだが、戦後すぐに復活した。(中略)

 
 もともとこの一帯は純農村。同園は農繁期の農家の託児所としてスタートしたが、「通園馬車」は、近郷近在をまわって幼児を預かるのに牛車を使うか馬車にするかで父兄ぐるみの論争に花が咲いたすえ、やっぱり馬車のほうが、スピードアップするからいいとなって生まれたそうである。(中略)

 ここいらもすっかり都市化して、住宅や工場がびっしり。(中略)

 「そこでじつは、馬車を廃止してバスに・・・と考えたこともある。が、馬車に乗ったときの、あの園児達の表情を思い浮かべると、やっぱりどんなにムリをしても、つづけようって気になってしまって・・・」
 と、園長は笑って語る。(中略)

 「この交通戦争のおりに時代遅れやないか、いう声もおます。でも、こんな時代やからこそ、なおさらつづけてほしいですわ。だってすごく夢があるやおまへんか。私なんかも、もういちど乗ってみたいですよ」
 と、同園の卒業生で、いまは父兄でもあるKさんは絶賛を惜しまなかった。



 
 
 文中には、ボクの住む地域の変遷も読み取れてとても興味深い。


 時代が、昭和48年(ボクは5歳)と確認出来たのは、同じ特集、どうやらこちらがメインだと思われる。

 現在の人間国宝・歌舞伎役者、

 尾上菊五郎襲名


 まだ尾上菊之助と名乗っている浅草寺での”お練り”の模様である。

 傍らに寄り添うのは、あの女優・藤純子。(中央)


 


 『菊』に、どちらも共通点があるが、話の内容には脈略が見当たらない。



 それはともかく、言うたびに馬鹿にされたり聞き流されたりしてきた疑惑が晴れた事、これで認めてくれますね?

 この数枚の切り抜き資料は、また大事に母の元へ戻しておこう。



 最後に、圧巻の画像を貼付けておく。

 ここに写る幹線道路は、だいたいの察しがつく。

 今も朝夕は車が列を成す生活路である。


 交通規制も無けりゃ、法的にこの馬車の往来が認可されていたのかも不明である。

 しかし、ボクの薄らとした記憶には、馬の大きなお尻と、時々『菊号』が、もよおして道端にポトポトと大きな「あれ」を撒きながら走るのだが、それを近隣のおばちゃん達が、当たり前の様にほうきとちり取りを使って処分していた事だ。
 (これもよく嘘やと苦笑されたエピソードのひとつだが、この点には文中に触れられておらず、疑惑は残るのか?)


 

 

 
| TAKAGIMAN/1968 | 23:50 | comments(6) | - | pookmark |
パーマ屋の竜ちゃん。
JUGEMテーマ:地域/ローカル


 
 この文章を書き終える頃には日付も変わるだろう。

 あと一日で、7月だ。


 個人的には、生まれ月なので、まぁ特別な日か。


 10代の頃には、一日も早く大人に成りたいと毎日思ったものだが、今はどうだろうか?

 あちこち痛かったり、回復が遅かったり、致し方ない。


 遠い過去のそれも子供時代を思い起こす癖が、益々増えた。

 子供の成長を日々目の当たりにしている影響もあろう。

 四十半ばにして、子供返りとはみっともない話だが、近頃急に中学時代の同窓会的な集まりの声が掛かる。

 人生70年ちょっととしたなら、ちょうど折り返しから終盤戦に再度ギアチェンジする時期なのだろう。



 昭和43年。
 
 1968年この世に生を受けた。


 高度成長期の後半、政治経済の混沌は、後に知る訳だから、実感は無い。

 しかし、何となくだが、五感の何処かに当時の色褪せた記憶が断片的にだが残っている。

 スモッグに覆われた黄色い空や、砂利道を車がガタガタ走っていた事、裏の家の風呂場の会話、朝来るバキュームカーの奮闘・・・。

 特に耳と鼻の奥に残っている音と匂いがある。

 
 「チョキン、チョキン、」という金属の擦れる音。

 ツーンと鼻を突く、パーマ液の匂いだ。

 

 
 そうボクは、パーマ屋のせがれとして、生まれたのである。

 『パーマ屋』と今は誰も言わないが、あの頃は、全ての商売人さんは「〜〜屋さん」と呼称された。

 勿論ウチにもれっきとした屋号がある。

 「高木美容室」とテントには大きく文字があり、その下には、着付けの注釈もあった。


 京橋の鴫野の長屋から店を出す為に移り住んだ母が店を切盛りし、婿養子で勤め人の父、海軍上がりの爺さんと文字の書けない婆さん、小さな家に住み込みの従業員も居た。

 


 狭い道沿いに向かい合う地域の商店街だったが、賑わい活気があった。

 商店街の先には市場があって、その路地は、幼いボクたちの恰好の遊び場でもあった。

 

 ボクは「パーマ屋の竜ちゃん」で通っていた。

 他にも「下駄屋の〜」「団子屋の〜」「花屋の〜」「肉屋の〜」「野菜屋の〜」

 要所要所には、贔屓の駄菓子屋が乱立していて、癖のある独り者の婆さんが、じっと腰掛けている。

 
 「かしわ屋のお兄ちゃん」の背中に立派な「もんもん」がある事は銭湯で知った。

 「花屋の兄ちゃん」には、こっそり花札を教えてもらった。

 「向かえの喫茶店の娘」の前髪を家から持ち出したハサミで切って怒られ、謝った。



 さて、なぜこんな私事を書き留める事を思い立ったのか?

 先にも書いたが、子育ての中で、どんどんと成長する息子の未来を考える様になった事が大きな要因だ。

 ボクの微かな記憶を辿れば、彼と同じ頃の遊び場はパーマ液の匂いが充満した店舗であり、遊び道具は、近所のおばちゃん方の頭にくるくると巻かれた大小色とりどりのカーラーだった。

 そして、漠然とボクの未来は美容師になるんだ・・・。

 そんな風な思いが確かにあった。



 しかし、運命というのか、人生はそんな簡単な歯車で回っていない。

 家庭の事情が一変し、物心がようやくつく頃には、パーマ屋は廃業となった。



 もうひとつ、この日記を書く動機がある。

 先だってのヴィダル・サスーンの訃報である。


 母の口からたびたび聞いた「サスーン」という語感。

 「サスーン・カット」もある。

 
 「ウルトラマン」「仮面ライダー」「タイガーマスク」「ジャイアントロボ」「バカボン」「ベム・ベラ・ベロ」「キューティー・ハニー」などと似た様に響く片仮名だ。



 思い切って、実家の母に当時の資料は残っていないか、訊ねたら、サスーンに通じる当時のヘアカット見本の切り抜きが多数発掘された。

 昭和46年と母の字で記されている。


 笑うなかれ。この頃の最先端のヘアスタイルだとか・・・。

 数あるサンプルの中から、抜粋してみよう。たっぷりご覧あれ!



   

   

   

   

   

   

   

   



 「さ〜って、貴女なら、どのヘアスタイルを指差しますかぁ?!」



 (おまけ)

 この小さな紙製フォトファイルの裏面の店名には、ずっこけました。

 こんな名前のカメラ屋、近所にあったけ???

 

 

 結局、サスーンとも、息子の未来とも、なんにも関わりの無い結末でした。

 要は、この実家のタンスの中から発掘された昭和46年のヘアカタログに吃驚したのでした。

 良く言えば、勇気のあった時代です。

(中には、今に通じる物も?どうでしょう?)








 
 


 
 

| TAKAGIMAN/1968 | 00:19 | comments(2) | - | pookmark |
アラフォーのボクは、実は80年代MTV世代(今昔)。
JUGEMテーマ:音楽



 昨夜の長い前置きの続きをやっぱり書かなきゃね。


 最後にドンとお馴染みのロゴマークで予告をしました。

 MTV


 現在も絶大な影響力を誇る音楽発信コンテンツとして健在。

 時折、ケーブルのチャンネルに合わせるも、ゴールデンタイムは国内の情報が多数を占めている事が多く、その昔このチャンネルの出現にカルチャーショックを受けた世代としては、やや物足らなくも映る。
 (あ!でも今、レッド・ホット・チリペッパーズのライヴやってるな。)


 ボクらの時代、音楽と言えば、まだ歌謡曲・演歌が全盛期で、音楽番組で毎晩どこかのチャンネルで放映されていたものだ。

 一方では、そんな歌番組には出演しないと公言し付加価値を付けるニューミュージック系のシング・ア・ソングライターも多数いた。(そんな彼らも年をとって、すっかり前言撤回しているのは今も解せない)


 そんな70年代の後期、ボクはちょうど小学校の高学年にさしかかろうとしていた。


 家庭環境に音楽の存在はこれっぽっちもなく、テレビに出ている歌手の誰かを贔屓にしては、「平凡」だの「明星」だののソングブックの付録の歌詞を覚えたりした。


 その頃、転校生のA君の影響で、ボクはビートルズと出逢う。

 衝撃的な体験である。


 音楽鑑賞なる体験だ。


 今だ、洋楽と邦楽(今はJ-POPと言うのか)という分類はその頃とほとんど変わらない。

 
 ほどなく中学生に上がる頃には、ボクはその洋楽派にどっぷりと属する事になる。


 そこに登場したのが、アメリカからやってきたMTVである。

 何が画期的だったかはご存知の通り、プロモーション・ヴィデオの出現だった。


 それまで洋楽を知る方法に、レコードがある。が、当然ながら中学生の懐では高価なレコードを頻繁に親にねだる事は不可能だ。
 だからもっぱらがFMから流れてくる情報源が主である。かじり付く様に聴き、同時にエアチェックして、カセットテープにせっせと記録しておいた。


 想像の域で膨らんでいたイギリスやアメリカのミュージシャンが、そのMTVの映像では、確認出来る。しかも踊っていたり、演技までしている。

 声と容姿が合致しなくて、がっかりした人も中には居たものだ。


 最も影響力の強かった番組は、現在も放送中の「ベストヒットUSA」である。
 言うまでもなくMCは、小林克也氏だ。


 洗礼を受けたと言って良い。

 ちなみに、最初に同番組で放送されたプロモーションヴィデオは、バグルズの「ヴィデオ・キル・ザ・レディオ・スター(邦題・ラジオスターの悲劇」
 正しくその通りの破壊力があった。

 
 ボクは、中学一年生。

 1980年代の幕開けである。

 
 

 さて、なぜこんな記事を書こうと思ったかである。

 

 先週の土曜日のヨシらとのライヴの時。

 2ステージ目が始まる前、ヨシがチューニングを整えるのに、ある曲のフレーズを一節弾き始めた事がきっかけである。

 そう、プリンスの『パープル・レイン』のイントロ。

 シカゴでは、ブルースのライヴでもプリンスの曲が頻繁に歌われるとか。このプリンスの代表曲もVANCE KELLYが気持ち良さそうに歌っている音源を聴かされた。

 ボクは色めきだって、そのヨシのイントロに合わせて、出だしをドラムセット越しに鼻歌で返す。


 プリンスが、世界的にブレイクするこの同名アルバムは、映画とも連動していた。それは、同時期にマイケル・ジャクソンがスリラーのプロモーションヴィデオを製作してMTVを世に知らしめた事の拡大版でもあった。

 映画「パープレイン」は、ストーリー全編がプロモーションヴィデオの体をなしていたとも言える。


 ボクは、マイケルではなく、プリンスに肩入れした。

 高校生になっていた。


 第一弾シングルは、シングル盤で買った。勿論アルバムも手に入れて、擦り切れる程に聴いた。その後、次々に登場するプリンス・ファミリーのゴージャスかつ猥雑な歌とファッションも魅力があった。

 益々産業音楽化する80年代の音楽シーンを一時期牽引していた。



 ヨシとのライヴが終わった後も、ボクの耳から「パープル・レイン」のフレーズと当時のイメージがなぜか離れない。


 強引にボクは、プリンス・ファミリーの話題をふる。

 幾人か頷く賛同者がいたおかげで、しばしその話が膨らんだ。


 「オレな、シーラEがすきやってなぁぁ〜」

 「TouTubeで流れてる彼女のドラムソロ観た事ある?」



 

 ここに、当時の妖艶なシーラEの映像と、現在もバリバリのパーカッショニストである彼女のドラムソロを貼付けておこう。
 是非見比べて下さい。

 そんじょそこらの「J-POP」なんかには、あり得ない裏打ちされた技術と才能を兼ね備えている事が一目瞭然。

 
 
 
 

 


 

 こんなMTVの映像を追っかける一方で、そろそろブルースと出逢う頃の回想。

 

 

 


 

評価:
Sheila E.
Warner Bros / Wea
¥ 641
(1987-07-16)

| TAKAGIMAN/1968 | 23:34 | comments(2) | - | pookmark |
アラフォーのボクは、実は80年代MTV世代(前書き)。
JUGEMテーマ:音楽



 今のブログ(JUGEM)を始める前、別のケーブルTV系のブログに1年程同じ様な日記を書いていた。

 その頃からの読者がおられるかは知る手立てが無い。

 予備知識も全く無いまま友人の誘いで、登録したものだから、ケーブル会社を引っ越しの際に変更した為に、その間の丸一年余りの記録は強制的に消滅してしまっていた。その事実もしばらく経ってから気づいたというなんとも情けない始末だ。

 たった今も乗換えたスマホなる物と格闘中である。

 頭の柔らかい若者は、難なく使いこなすのであろう。



 今年、ボクは、当年とって44歳になる。

 (やった、バースだ!)


 ところで、こうして日記みたいなものを無条件に他人に公開する上で、困る事が幾つかある。

 拙い文章になってしまう事は、さておき、

 自分の事を、どう名乗るかだ。


 この頃は、『ボク』としている事が多いが、その日の気分や書く内容によっては、『私』あるいは、ちょっと粋がって『小生』とやってみたり安定しないままだ。

 どうでもいい事だが、どうにもおさまりが悪い。


 『ボク』とする事が多くなった要因に、より自分の声に近づけたいという心理が働いている。

 但し、平素『ボク』と名乗る事などは、ほぼ無いに等しい。

 仕事上なら『わたくし』だし、親しい目上の方なら『ボク』になる。

 
 が、大半は『オレ』を一番頻繁に使う。



 しかし、公然と『オレ』流で日記を書くのは、やはり品がない。

 実年齢を考えたら、『私』とすると上品な気もするが、どうもやはりこそばゆい・・・。



 ん〜〜〜、って何が言いたいねん!

 という訳で今後、『ボク』で統一させて頂きます。
 (なんのこっちゃ?)


 ちなみに、コメントを下さった方に、以前は『〜殿』を長く使用していた。

 ところが、あるラジオ番組を聴いていたら、〜殿。は本来は社会的な目上が目下に使うと言う。とんだ勘違いをしている日本人が多いらしい。

 仕事の見積もりなどでも「〜〜〜御中 〜〜〜殿」と平気で使っていた。

 この場合「〜〜〜御中 〜〜〜様」が正しいそうだ。

 日本語って難しい。


 そんな些細な事を気にする様になった。

 先に書いた消滅した(データ社会は怖い)日記を書き始めたのは、2005年の初夏だった。

 

 「ボク」は、37歳になる直前の事である。

 『オレ』流で、あれこれと知ったかぶりに好きな事を書いていたかもしれない。


 
 大抵ブログには、カテゴリーに分類する機能があり、当方でも幾つかに分類して日記に選別を施している。

 中には記事数の少ないものもあるが、そのひとつに、『TAKAGIMANのAround 40』なるカテゴリーをある日から設けた。

 ちょうど天海祐希主演のドラマが火付け役になって、『アラフォー』なる流行語にもなった言葉を、自分に重ね合わせて拝借したものだ。

 (参照)そのアラフォー話の幾つか↓
 http://takagiman.jugem.jp/?cid=14


 
 しかし、ここには大きな落とし穴があった事に気づき始めたのである。

 アラフォーなるもの、要するに40歳の前後を指すものだから、毎年予備軍が仲間入りを果たし、その代わりところてん式に古参組は押し出されるのである。

 いわゆる「戦中派」とか、「団塊の世代」とか、「全共闘世代」などといったある時代を特定する記号ではないのだ。


 ということは、44歳になろうとしている「ボク」の立場は、益々微妙になってくる。


 ・・・てまぁこれも、重箱の隅を突つく様などうでもよい理屈ではあるが、A型長男の「ボク」には、黙って目をつぶる訳にはどうしてもいかない・・・。なおかつこうした内容の日記をこれからも時折思い出した様に書き続けたい。なぜなら、読者の方の中には、同世代が意外にも多く、ちょっとした反応があるからである。



 で、本日より、カテゴリー名を新調します!


 『TAKAGIMAN/1968』


 1968とは、勿論ボクの生まれた年号である。
 昭和なら43年だ。
 
 さぁ、これならば、好きなだけ書けよう。


 この頃に産声を上げた皆さんの「あ、ボクもそんな感じやった」ってな反応が楽しみである。



 長々と実はこれ、前置きであります。


 本題は、明日の晩あたりにもう一度・・・。



 「それでは、皆さん、バイナラ〜」


 (予告)

 

 
 
 

 


 

| TAKAGIMAN/1968 | 23:53 | comments(0) | - | pookmark |
Pressure Drop!
JUGEMテーマ:音楽


 
 この記事の更新ボタンをクリックする時間には、

 もう月が7月になっているはずだ。


 ・・・・。


 「さぁて、梅雨は何処へ行ったぁ?」

 

 

 先週末からの酷暑続きに、四十路過ぎには適応が難しい。


 これが20年前なら、友達に誘われ、

 「おい、どっかへ遊びに行こ!」

 と、車の助手席に飛び乗れたもんだが・・・。


 今や恒例、右腕の営業運転焼けだけが夏の証とは格好がつかないよなぁ〜。


 ちなみに自己申告するが、7月は小生の生まれ月である。

 

 ちょうど、京都の祇園祭が優雅に有終の美を飾る日でもある。

 ここでは自称・夏男としておきましょう。



 全国的規模での節電意識の高まりで、営業先である大企業の建屋は異常なまでに薄暗い。
 天井を見れば、電灯のほとんどが消えている。

 室温設定も28度くらいだろうが、陽当たりの良い場所なら30度を越えているだろう。

 担当者と商談の最中、ジトっと手元の資料が湿るのが気にかかる。



 今日半日で、苦もなく麦茶2リットルを飲み干し、追加でビタミンウォーター1本。

 飲まないと、またあの持病が用心しないといつ襲ってくるか分からないからだ。



 そんな得意先回りの車中のカーラジオから、青春時代『MTV』全盛期に流行った曲がオンエアされた。

 今聴けば、なんともお気楽なヘナヘナ・レゲエもどきな曲だな・・・?

 でもこれ、けっこうヒットしたんだっけ?




 てなわけで、この筋にはほとんど詳しくないのに「夏はレゲエ」な気分の一日。

 ジミー・クリフのこのサントラを頭の中でイメージ。

 実は、これ昔々貸しレコード屋さんで借りてダビングしたカセットテープしか持っていないのです。

 もはやカセットデッキが無いので、再生不能。


 困った時のYouTube。


 ん〜〜〜、Pressure Dropな6月最後の日。





 

評価:
Desmond Dekker,Jimmy Cliff,The Slickers
Island
¥ 715
(2001-06-26)

| TAKAGIMAN/1968 | 00:18 | comments(2) | - | pookmark |
『男の世界』
JUGEMテーマ:日記・一般


 朝のラジオで知った。

 今日は、11月22日で『いい夫婦の日』らしい。


 いい夫婦の基準がいまひとつ定かではないが、なんでもそうらしい。


 所帯を持つ身として、一考も良い機会かもしれない。


 小生も偶然の出逢いがあって、夫という立場に収まる事が出来た。

 早8年目を無事に先日迎えたところである。

 おまけに昨年のちょうど今時分師走も押し迫った頃には、父親の役目も増えた。
 (その時の有頂天な今読み直すと気恥ずかしい日記も記している)
 http://takagiman.jugem.jp/?day=20091221

 
 夫婦といっても元は赤の他人である。
 尊重し理解し合うという心構えで、この先も続くだろう長い付き合いをお互いで意識することが良い夫婦との秘訣だろうか・・・?

 千差万別のそれぞれの夫婦には形態があるだろう。
 具体的な正解など無い気もする。


 

 ところで、時々巷を歩いたりしながら、現代女性の動向などを横目で観察してみると、彼女達から発せられるエネルギーには圧倒されることにしばしば出くわす。


 男女雇用機会均等法が施行されて随分と久しいが、一方職場では相変わらず女性の立場と言うものはまだまだ改善されていない気もする。

 女性が自立して、社会性を持つという理想と現実のギャップはそう易々とは一般的には縮まってはいない。


 半面、繁華街を生き生きと闊歩する女性達は益々増えた気がするのは私だけか?


 元々女性にはそういった生命力が宿っているのだと解釈してみたら至極納得する。

 
 だから、男は声高に虚勢を張ってその強さを主張するのだろう。



 男自ら『男の世界』をどう考えているのか?


 小生が幼い頃には、「男たるもの」とまだよく耳にしたものだ。

 男は、黙って語らず、強く、逞しく、弱い者を助け、潔く、誠実であり、言い訳などせず、家族をその手で養い、守る。

 そんな主張が、まだまかり通っていたものだ。


 実際はそんな大人に出くわす事はなかったが、男の生き方は様々なところで描かれていた気がする。


 小生も時が経ち、その大人の男の仲間入りをした時には、すでにそんな定義はいずこかへ消え去っていて、バブルという恐ろしい波の真っただ中に投げ出されたのだ。

 女性には従順であり、優しく、あわよくば財力のある男が珍重されたものだ。

 アッシーやメッシーなんて、本当に居た。


 こんな小生もご多分に漏れず、バブルの波に少しは飲み込まれた口である。

 歯向かう事すらはばかれる様な奇妙な時代であった。


 あれから20数年、気づけば男は軟弱になってしまった。


 
 昔、『ハードボイルド』なる言葉が流行した。

 辞書を引くと、冷酷・非情。特に対象を冷酷、非情に描写し、感傷を排する手法。とある。

 若干その当時のニュアンス、使われ方とズレている気がするが、とにかくよく耳にした・・・。

 
 ハードボイルドと真っ先に浮かぶ台詞は、土曜日の午後9時に始まる刑事ドラマ、

 『Gメン'75』だろう。

 オープニングからいきなりそのハードボイルドの言葉から始まる。
 子供心にそのインパクトは最高である。
 スタッフのクレジットには深作欣二の名が見て取れる。



 当時は男と女の世界が区別されたのと同じく、大人と子供の世界もはっきりと区分けされていた。

 家に1台しか無いテレビのチャンネル権は父親の物と決まっていた。

 
 ハードボイルドという言葉に代表される男、大人の世界は子供が踏み入れられない壁であり、一種の憧れの対象としての位置づけでもあった。

 一日も早く『大人の男』になりたいという願望をつのらせてくれるものであった。

 以前の日記にも書いたタバコがそうであるように、大人の男を描く映画やドラマ、そしてその合間に挿入されるコマーシャルにおいても溢れていたと記憶する。

 
 そんな記憶の糸をたぐり寄せてみたら、即座に浮かんだテレビコマーシャルを以下に並べる。

 ズバリ!『男の世界』と謳う余りにも有名な男性化粧品、

 『マンダム』

 「ン〜〜〜〜、マンダ〜ム」と小学生から大人までが真似た。

 ハードボイルドを体現するチャールズ・ブロンソンの格好良さは男の憧れとして普遍だろう!


 サントリー・オールドのこのCMソングも耳から今も離れず、何かの拍子に今もつい口から出てしまう。


 同じサントリーのウイスキーでも、こちら、サミー・デイヴィス・ジュニアのコミカルさも大人の男の世界であった。
 これも当時「コンチコン〜」とよく真似をしたものである。



 最後に主旨が少し違うが、三島由紀夫という一人の小説家の映像である。

 小生が物心ついた時には、割腹自決を遂げた後だったが、こういう文化人が、国柄を語り、またそれに堂々と真っ向と対峙しようと試みる若者達が存在した時代があったのである。

 結果的に三島由紀夫のとった行動とその後の末路には賛否両論あるだろうが、今現代のこの膠着した状況の日本において、もし彼の様な論客の存在があったならばと、この映像を何度も観ては激しく妄想してしまうのである。




 ハードボイルドは、もうとうに死語である。

 時代はそんなことを求めない。

 そして『男の世界』などという言葉も幻想となった。


 
 ・・・しかし待てよ。

 今こそ「ハードボイルド」な大人の「男の世界」の登場を世間は待望している気がしなくもない。


 
| TAKAGIMAN/1968 | 23:34 | comments(0) | - | pookmark |
拝啓、麗しのマドンナ様。
JUGEMテーマ:音楽


 国道沿いの某大手中古ソフト店に暇つぶしに入る。

 250円CDコーナーを徘徊、物色。時々めっけもんに出逢う事があるので。


 なんとなく、手に取ってみたのは、

 Madonnaの80年代のベスト盤。

 中学から高校生にかけて、MTV出現による洋楽ブームが到来していた。

 音楽は、ただ聴くだけの物から視覚を伴う物に変革していた。
 いわゆるプロモーション・ヴィディオというやつだ。

 その善し悪しが、ヒット曲を生み出す時代であった。

 その手の深夜放送番組を毎回チェックをし、US、UKチャートを頭に叩き込んでいた。


 Madonnaはマイケル・ジャクソンやプリンス、イギリス勢などと並んで一躍時代の寵児に上り詰めた。

 高校一年生になっていたボクは、深夜のブラウン管の中で唄い踊るMadonnaの虜となるにはさほどの時間はかからなかった。
 1ラウンドノックアウトと言っていい。

 空前のヒットとなったセカンドアルバム『Like A Virgin』の特大付録ポスターを天井に貼付けた。
 ちょうどベッドに寝っ転がったら目が合う位置だ。

 そうして毎晩、薄明かりに彼女の挑発的な目線を感じながら寝るのだ。

 

 そんな恥ずかしい青春期を走馬灯のように思い出し、手にしたCDの裏ジャケットのあの時と同じ挑発的な彼女の目に見つめられ、足はレジに向ってしまっていた・・・。


 


 時おり今も、ラジオから彼女の変わらぬ歌声が流れる。

 あれから25年以上、50歳を過ぎても衰えを知らないMadonnaの色香は、中年男には毒だ。

 ちなみに高校生の時、Madonnnaのパクリ、レベッカのコンサートに出来たばかりの大坂城ホールへ行った時の居心地の悪さは今もトラウマとして脳裏のどこかに焼き付いて残っている。

 これ、好きな曲ですね。
 PVも打ち込み音もファッションも80年代の軽さを象徴していて、どこかこそばゆい。
 http://www.youtube.com/watch?v=ekuLE5mjH-E&feature=related


 そして、今も彼女はQueen Of Popとして、君臨している。

 

| TAKAGIMAN/1968 | 00:45 | comments(4) | - | pookmark |

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